20170201 6:25
「欲」について知りたかった。
欲とはなんなのか、欲によって人は苦しむのか?、じゃあ欲ってそもそもなんであるの?
そういうことを体験的に知りたくて、この数年の間、自分自身の欲、食欲、物欲、性欲、睡眠欲、名誉欲、支配欲・・・そういうものをなんとか掘り起こし掘り起こし、それらが身勝手に振る舞いはじめるまで野放しにしていたのだけれども、、けっきょくそれでよくわかったのは、「欲は欲によっては埋められない」ということ。
なんか、当たり前といえば当たり前の結論なのだけども、欲というもののめんどくささを先に先に察知して、ほとんど無意識レベルで制御しながら生きてきてしまった20数年だったので、まずは巧妙に隠蔽された欲を自分のなかから掘り当てて「欲」というものとまじまじと顔を突き合わせ対面する作業からはじめる必要があって、それはなかなか時間のかかることだった。
そもそもなんでそんなことをはじめようと思ったかといえば、あるとき自分のなかのごまかしがガラガラと崩壊して、深刻ではないけれど自分のなかになにかしらの依存症のような質の片鱗があることに気づいてしまったことと、なにかしら満たされていない感情が自分のなかに眠っているのをなにかにつけて見せられることがあって、それが本格的に向き合いはじめたきっかけ。
あれが欲しいとかこれが欲しいとか
あれがスキとかこれがキライとか
そういう感覚がほとんどゼロ(顕在意識では)のところから、いや、そんなことはない、きっとあるはずだ、と、えっちらおっちら一生懸命そういう感覚を発掘して、ようやくようやくつかみかけてきて、ではそれらをひとつひとつ満たしてあげましょうかとするけれども・・・けっきょくそんなこんなしたところで「もっともっと」の無限ループ。
そいで、よ〜〜〜く分かったのは、さっきの結論「欲は欲によっては埋められない」ということ。
「欲」そのものが悪いのではなくて、「欲」を意識した上で「愛」で満たしてやること。
「欲」というのはけっきょく「愛」の欠乏状態によって生じるものなのだ。
自分の奥底に眠る「もっとくれもっとくれ」とせがんでいる惨めで貧相な自分によって欲は生成される。
それがいろんな欲となって意識に上がってくるのだけれども、けっきょくその最奥の自分というのは、たんに「愛」がほしいだけなのだ。
それが形を変えて、あれが食べたいこれが欲しいあれがないと嫌だ、なんなら○○反対!とか、人類を救う!とか、そういうふうに表出してくる。
本当は愛がほしいだけだったのにね。
「欲」そのものになってみることではじめて、愛からもっとも離れた真っ暗な場所にある「欲」の根っこのようなものに触れることができる。
同じことをしていても、愛が枯渇した状態ですることと、愛で満タンに満たしてからすることでは、雲泥の差だ。
「インナーチャイルド」という言い方があるけれども、よく言ったもので、やっぱり「子ども」というのは自分自身の満たせなかった想いや欲求が外側に「ポイっ」と生まれ出て可視化されたものなのだな、とよく思う。親が自分自身の欲求に気づくまで、子どもはこれでもかこれでもかと見せてくれる。親子、とはとくにそういう契約のもと来ていることが多いと思う。
さて、この1月の末に、うすぼんやりと影が見えるばかりでなかなか実体にたどり着けなかったこの「最奥の惨めで貧相な自分」にようやくようやく手が届きました。ここに行き着くまで、本当にたくさんのプロセスがあって、なんなら10年くらいかかったけど、たくさんの人が力をかしてくれました。おかげさまで「欲」というものの本質がだいぶよく分かるようになりました。どうもありがとうございます^^
※ちなみに、最終的に「欲」についてとても理解が深まったのは、先日まで泊まっていた宿が朝夕2食つきの上げ膳据え膳状態でありがたいかぎりだったのだけれども、胃腸がつかれていたので、きのうからプチ断食していたのが功を奏して「食欲」というものを通じて、欲によってエネルギーを得ようとするときと愛(光)からエネルギーを得るときとの根本的なちがいを明確につかめたことが大きい。