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2017年5月16日火曜日

右半身に溜め込んできてしまったらしい感情やらいろんなものの解放が目に見えてはじまったのは、約3年前。

凄腕の由美ちゃんにカラダを触ってもらって、それ以来ことあるごとにちょいちょいと出てき続けているのだけれども・・・

ここにきて、またまた大解放がはじまっている。

自分的にはだーいぶやってきたと思っていたのだけれども、まだまだまだまだ・・・いったいどれだけ溜めてきたんだ(笑)

右側の、関節という関節が疼いてしかたがない。とくに右足首近辺。

頭蓋骨も、右側だけがぼーっとしている・・・

出てくる感情は

悲しさ
恐れ
怒り

筋肉や関節に染み着き記憶し、ほぼ一体化してしまっていたような、それら・・・

相対的にみたら、そこまで、こんなにも深〜いなにかを溜めるほどの、ことだったとも思わないんだけど・・・

ウーーム。

感じているけれども感じないことにしてきてしまったことが莫大で膨大、というのはひとつあるのかも知れないけれど

しかしまぁ、出てくるものはしかたないし、しんどいけど出してやるしかない。

あーーしんど。。

憶えてないこととかも、あるんだろうなぁ

細胞だけが記憶していて、痛みとしてだけいまは認識できる

なにが痛かったのか、はいまは思い出せない

幸せになっていいんだよ


と、あらためて自分へおもう。




20170516 14:08


最近いよいよ自分の書くものがほんとうになんでもどうでもよくなってきた

だって自分じゃないし

自分なんだけど

あいかわらず、狂人の記録だ。

自分のなかでのバランスの取り方が極端すぎる、笑


そんなわけ(?)で、いまはマリリン・マンソンのThe Death Songを聴いている。

定期的に聴きたくなるのですけど、やっぱりマンソン先生素晴らしい。

ノーーーッフューーーーッチャーーーー!

とか、叫びたくなるよね、うんうん、わかるわかる。

裸ん坊でこんな叫んでくれてねぇ、
ごくろうさんなことです。


The Death Song

これなんかも、とっても素敵ですよ。
Great Big White World





2017年5月13日土曜日


わたしの内側からは、

あきれるほどの綺麗事しかけっきょく出てこず

自分がいちばんあきれている

そうじゃない、なにか

もっと深みがあってもっと泥くさくて

もっとカンタンじゃなくてもっともっと複雑で

もっと痛ましくてもっと卑劣でもっと残酷で

そういうものをどれだけ求めどれだけ内に取り込もうとしてきたことか

本人的には、だいぶ決死の覚悟で


と、いうのにもかかわらず、わたしにはけっきょくこれしかのこらず

ざんねん極まりない


でも

年末の、

笑ってはいけない24時で

どうして松っちゃんと浜ちゃんが毎年一年の終わりに公共の電波でおケツをたたかれつづけるのか

それこそおケツの青かったわたしには

じつはぜんぜんわからなかった


けど、人々がそれを必要とする心のありようが、いまは曲がりなりにもすこしだけわかる

なんと、すごいお仕事!!

それがわかっただけでも、わたしの無謀なこころみも無駄ではなかった、のかも、ね


地球は、

いつだって

うつくしく 眩しい




2017年5月12日金曜日

20170512 14:50


ほんとうは、だれのこともにくんだりなんかしていなくって

ただただあいしていて

あいしているとつたえたくて

でもつたえられなくて

それでひとはくるしむんだよ

あいしているよ

そのきもちがつたえられない

それはきっとほんとうにつらいこと

あいをさしだすことを

あいをあらわすことを

きんずることは

きっと

どんなごうもんより

どんなばつより

ひとのたましいをいためつける

あいをさしだそう

あいをあらわそう


あふれんばかりのむげんのひかり

あふれんばかりのむげんのみなもと




・・・











Aozora Yoga, Jindai Botanical Park, 11 MAY2017



2017年5月1日月曜日

20170501 11:29


あーめんどくさいめんどくさい。

と思いながら、いつも文章を書いている。

なんでこんなこと、わざわざ書かなあかんねん。

なんでこんな、公共の場で自分語りをせなあかんねん。

とかとか。


でも、書かないことにはどうもこの人生終われないみたいなので、しかたなくて、なんなら若干嫌々(笑)、書いている。

書くと、右半身の変な疼き?痺れ?がおさまるのだ。

右側の疼きが落ちつくまでは、めんどくさいけど、アウトプットを意識的に日課にするくらいの気持ちでいないとダメみたい。

そもそも、生きていることによるインプットが、日々多すぎるのだ。

引きこもりを心がけ、たまに出かけ、日々書き続ける。

これからしばらくの、過ごし方。

わたしにとっての、LOVE, SERVE, REMEMBERとは、書くことがひとつ、なんだなーー。きっと。



Greetings from a spaceship shaped like a cloud, Hateruma Island, 2017




2017年4月30日日曜日

20170430 12:50

新月の浄化作用と、もろもろのおかげさまあいまって、子どもの頃の想いというのが、ちょろちょろと浮上していた。ひさしぶりにねちっこいやつ出てきたゾ(笑)。

この、子どものときに自分がどう思っていたかということを語る、というのは、いま子育て真っ最中の人たちにとったらプレッシャーになってもヤだしな、とかいろいろ思ったりしてなかなか出力できてきてないことのひとつなのだけれども、一方で言葉をあまり持たない子どもの心のうち、というのが可視化されるということはあんまりなくて、だからこそ、そういうものがちょっとはあってもいいんじゃないかな。だってみんなもともとは子どもだったんだし。とも思ったりもするので、せっかく浮上してきた想い、こちらにそっと置いてみます。


◎クスリを飲むのが本当に嫌だった。とくに抗生剤。
言いたいことが言えなくて、ハートが萎縮して、気管支炎になったり、感覚を鈍らせなくちゃいけなくて鼻炎になったりしているのに、それをさらにクスリで抑えつけられる、というのは、本当に嫌だったなぁ。精一杯の助けてのサインは、あえなくスルー。

◎知らないふり、をするのがしんどかった。
いろいろなこと、気づいているし知っていたのに、気づいてないふり知らないふり、それをしなくちゃいけないのが、しんどかったなぁ。分かってない存在としていなければいけない、無邪気さを装うことの苦痛(笑)。

まだ言葉もしゃべり出すまえの1歳前後の時に、保育園で年上の園児たちが「かえるのうた」を歌っていて、「あ、この歌知ってる!歌いたい!」と思ったけど、「いや、でもいま歌ったら先生をびっくりさせちゃうな」と思って歌わなかった、という逸話を持っている友人がいて、これはまた極端な話だけれども(笑)、そのレベルで、いろいろ分かっている子どもたちは、本当に多いと思う。

ちなみに、こういう想い、というのは親に対する想いのようで、じつはそうではない。
彼ら彼女らは、そのときそのときで精一杯の対応をしているので、それはそれで「いい」「わるい」といえるようなことではない。

それよりも「自分が自分自身をどう扱うか」というテーマが親との関係性のなかで出てきているにすぎなくて、たぶんわたしにとっては「(恐れずに)本心を語る、自分を表現する」ということがテーマであるからこそ、こういう関係性やパターンを選んで生まれてきたのだろうなぁ、と思ったりしている。

それにしても、子どものころにされて嫌だったこと、というのは、気づいていないものも含めてたぶんわんさかある。
あーやだったやだった。
そのときに感じきることのできなかった「嫌だった気持ち」というのを、「そうかそうか、いろいろ嫌だったんだね~~~」と大人になった私は聴いてやることができるので、浮上してきたものに関しては耳を傾けて成仏させたいものだなぁ、と思います、








(写真くらいはせめて爽やかなのを、笑)
Hateruma Island, FEB 2017



2017年4月15日土曜日


こどもたちは

親たちに

もっともっと自由でいいんだよ

本来のあなたのままでいいんだよ

そう伝えるために、あなたのもとにやって来た

私たちは幸せにしてもらわなくても大丈夫

もうすでに幸せだから

すこしくらい食べなくたって生きていける

私たちは光の子

だから、安心して

あなたがあなたを幸せにする

その助けをするために

わたしたちはここに来ました

あなたがたの魂の歓び/解放は、わたしたちにとってのなによりの栄養、なによりの滋養

あなたがたがわたしたちに向けてくれる気持ち、

それとおなじく、もしくはもっとそれ以上に

わたしたちはあなたがたのことを想っている

どうか幸せでありますように

どうかあなたの心が平安と温かさで満たされますように

わたしたちは、しっている

あなたの苦悩、あなたの苦しみ

そして、あなたがたがいつも懸命に生きてきたこと

"親"でなくて、だいじょうぶ

りっぱでなくて、だいじょうぶ

わたしたちは、この地上でともに力をあわせて生きていく

同志

心から、あなたの幸せを願っています


"the voice received from the SPACE,"

04142017


2017年4月12日水曜日

20170411 21:11


さて、子育て生活も残すところあと3日。

いや〜こりゃ、みんな、よくやるよなぁ。
世の中の多くの人がこなしてる経験にしては、気力にしろ体力にしろきっと自分の持てるかぎりの能力を駆使してようやっと間に合う、そんな感じなのではないかしら。

それぞれのキャパに適した子どもがやってくるにせよ、体育会系であろうと文化系?であろうと、器用だろうと不器用だろうと、体力があろうとなかろうと、この経験が子どもを持ったら当たり前にだれにでもやってくるってのは、なんだかすごい。

手先が不器用な人とか、赤ちゃんの爪切りとかどうするんだろう?!という余計な心配をしてみたり(笑)

きっと罪悪感の強い人は、子どもが泣き止まないとき自分が責められているような気持ちになるだろうし、不安の大きな人は、自分がいなければ死んでしまうかもしれないイキモノを前にとてつもない恐怖におそわれるだろう。完璧主義だったり潔癖だったりしたらそれもきっと辛いだろうし、精神的に追いつめられて、可愛いはずの我が子になんの感情もわかなくなったり。自分自身のトラウマがよみがえったり。

ほかにもたくさん、映し鏡のように、きっと彼ら彼女らは親たちの葛藤やブロックを刺激する。

いや〜、すごいこった。

とくに、今は密室の育児だから、なおさらこういう面が強く出るのかも。

コロンビアのおばちゃん(在日本歴30年)が、「日本は好きだけど、なんでも我慢我慢で大変だったヨ!」と言っていたけど、いやもうほんと、せめてみんながあと10%ずつくらいムリしなくなったら、だいぶいい気がします。ノーモア我慢。

適当に手を抜いて、自分のご機嫌なにより大切に。




(母子像、笑)



2017年4月8日土曜日

20170407 20:40

こうして日々ペラペラとしゃべっているけれども、自分がもっとも深く感じ入っていること、というのはなかなか言葉にはならないことの方が多い。

道ですれ違うたくさんの人たち、バスやメトロで乗り合わせた人、スーパーのレジのお姉さん、屋台のおばちゃん、お土産屋のおじちゃん、道ばたでお菓子を売る親子、彼ら彼女らの顔に刻まれた、人生の襞、命の連なり。

山肌に張りつくように並ぶ、おもちゃ箱みたいなカラフルなレンガ造りの家々、裸足で駆け回る子どもたち。

見知らぬ人の、日々の営み、日々の暮らし。

人生の悲哀、人生の機微。





2017年4月7日金曜日

20170404

【生きるということは傾向と対策ではない】

ヨガ通してなにを一番に学んだかといえば、表題のこれに尽きるかな、と思う。

けっきょく、学校教育というものを通じて身につけさせられたものも、この「傾向と対策」的思考なのだと思うのだけれども、「傾向と対策」というものをいったん手放してみようとして初めてどれだけ自分が「傾向と対策」的思考にどっぷりハマっていたかに気づかされた。

人間というものが、真に自立した存在であろうとするとき、つまり、自分自身の真我/魂/根源(愛)とともに現実を生きようとしたとき、そこでは「傾向と対策」はむしろ邪魔になる。

「傾向と対策」とは、エゴで現実をコントロールしようとすることであり、また「傾向と対策」を立てつづけることは、「生きるとはサイバイバルである」ということを無意識的に自分自身に日々刷り込んでいるということにもなる。

でも、生きるとは、本当はサバイバルではない。

ほんとうは、この世界でサバイブする必要など、ひとつもないのだ。

必要なものが必要なときに必要なだけ与えられる。
まちがえるときはまちがえる。
できないときはできない。
苦しいときは苦しい。
死ぬときは死ぬ。
ただそれだけ。

これ、口で言うだけなら簡単なのだけど、それをほんとに身をもって示してくれたのが、ヨガのお師匠、自称・普通のおじさん、飯田不久先生。人間としてこの地上で生きるうえで大切なことを、たくさん教わりました。

こんなにも「傾向と対策」から遠く生きている人は、私のまわりにいまだかつていない(笑)
自分の人生をうまくやろうとか操作しようという気が、かぎりなくすくない。
だからけっこうドジもするけど(笑)、なんのその。
それはそれと、ぜんぜんへこたれないのだ。

普通のおじさんを自称してるけど、済んだことを気にしないっぷりにかんしては、普通ではないとおもう(笑)
そんなにも「イマココワタシ」、でいいものなんだ?!!と目からウロコ。

そして「場づくり」だとか「ファシリテーション」なんてことを、あれやこれや考えず「場」をつくっている。Space”Be”ですごした時間は、ほんとはそんなの必要ないんだよねって思えた貴重な経験。

こないだも「子どもを持つまえに、子どもが自分より先に死ぬ覚悟をした。」という話をヨガのときにしてくれたのだけど、こんなこという親、ほかで聞いたことない。

「占い」というのも、ある意味、「傾向と対策」の産物で、だからこそ「生きるとは傾向と対策ではない」ということを、「占い」を求めてきた人たちに伝えられたらそれが一番いいな、と思っていたりする。「星を読む」とは人生をあれやこれや操作するための「傾向と対策」が目的なのではなく、宇宙と一体にある自分自身を感じるためのもの、

なんだか話があっちゃこっちゃ飛んでしまったけど、そんな不久先生のヨガは、あきる野と旭川と多治見と新城と京都(伏見)などで、定期的に開催してます。

こないだも「パタンジャリなんか、知らん!」という話(おおざっぱにいうと)になって「ダ・ヨ・ネ!!」と激しく共感。
なんで、みんなオーセンティックな教典を求めたがるのだ。

ヨガをやる人で「パタンジャリなんか、知らん。八支則なんか知らん。」という人がいることはとっても大事なことだと思う。

こちらに不久先生の巡業日程のってます。
興味のある方は、のぞいてみてね。
https://www.facebook.com/Space-Be-376621328312/?fref=ts



20170406 18:40

虐待とかって、本当に嫌だなぁ、と思う。虐待そのものを責める気持ちはないけれど、そういうものが生まれてしまう構造が、やっぱり哀しい。

自分より、力の弱いものに対しての暴力は、なにもかもが哀しい。
たとえ、それがお互いの魂の了解のもとだったとしても。

鼻くそに一喜一憂される子どももいれば、人身売買される子どもいて、お受験に翻弄される子どももいれば、銃を持たされる子どももいる。

すべては経験、とはいえ、バラエティに飛びすぎてるにもほどがある。バランス的に、もう少し楽園系のストーリーの増加を求む。

なむ。



とくにどこからも連載の依頼がないので(笑)、勝手にはじめます↓

『我が輩は乳母である』ww

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吾輩は乳母である。名前はumic。
地球外の生命体(エネルギー)を地球へ橋渡しする、そんなことを影のミッションとしつつ、日々人間として地上生活を送っている。
現在は、今年地上に降り立ったばかりの二つ子の魂のソフトランディングを手助けすべく墨国にてミッション遂行中。

地上に来たばかりの魂の観察はおもしろい。彼らはいろいろなことを脳波で受け取る。例えば彼らを寝かしつけたいと思ったとき、「早く寝たまへ」などど思っていると彼らは一向に眠らない。彼らをどうこうしようとあれやこれやと四苦八苦するより、こちらも自分自身に集中し、自分の脳波をθ(シータ)波からγ(ガンマ)波くらいに調整すると、なんと不思議なことに彼らもコテンと寝てしまうのである。それにくわえて我々のオーバーソウルに向かって「彼らにネムネム光線を」とオーダーするとさらに効果はてきめんである。

とはいえ、こんな浅はかな作戦も彼らに効果を発揮しないときもあるので、そんなときはお手上げするしかないのだが、なにはともあれ寝かしつけ、というのは瞑想を実践するのに大変に有効な時間であることはたしかだ。なにせ、自分自身が深い瞑想状態にあればあるほど、彼らはコトンと眠りに落ちるので、自分自身の瞑想がどれだけ深まっているかそれを測ることができるというなんとも便利な機会だといえる。

そして彼らの得意技は「忍法カワイイの術」だ。この術にかかると、夜中に起こされることも、乳を飲まずにぐずられることもすべてどうでもよくなってしまうので、大変におそるべき術と思われる。地球に生まれた赤子というのはこの「忍法カワイイの術」をみな携えてやってくる。じつにたまげた生存のための術なのである。
(つづく?かも。笑)



2017年4月5日水曜日

【赤ちゃん関係も人間関係】

結局のところ、子育て、というのもほかの人間関係とかわらず、「互いに必要な経験を与え合っている」ということなんだよな、とやっぱり思う。
ただ、あまりにも密接で感情的なものの相まって客観的に見づらい部分があるので、そのようにとらえるのは、とくに親側にとったらむずかしいのかもしれない。

親が「子どものために」と言うときは、たいがい「自分のため」なのであーる。

さて、そんな親のエゴにつき合う子どもたちを見ていると、いやぁあなた方もごくろうさまですね、とどうしても思ってしまうけれども、まぁそれも、地球に生まれるうえでのコミコミパックツアーみたいなもので、子どもたちはそんなこんなもすべて了解済みなのだろうな、とも思う。

どんなタイプのエゴを身につけるか、または今回の人生のテーマを設定するときに、どんなエゴや信条を持った親の元に生まれるか、もふくめ最善最適な選択をしているのだ。

いやぁ、しかし、ヒトがどのようにヒトとなっていくのかを見るようで、とてもおもしろくもあり、ちょっと切なくもあり。

君たちの未来に、幸あれー!



2017年4月2日日曜日

4月

20170401 14:25


4月・・・!

なんだかおもしろいもので、単に月が切り替わっただけのことなのだけど、空気の質がよりいっそう柔らかに、優しくなった感じがする。

なんだろう、きのうポポアカペトルへ意識が向いたからかな。
お宙の存在たちを、より近しく感じる今日です。

ああ、空気が心地よい。
こんなに空気の悪い、メキシコシティだというのに。

超微細な高周波ミスト?が降り注いでいる。

Thank you all for being with me all the time.
I feel you so close today:)






maravillosa!!!



2017年4月1日土曜日

さんぽ

今日はふらっとコンデサ地区というあたりをさんぽしました。
インスタに載せたものをこちらでも。

ミチョアカン通りの看板を見つけて興奮。



ル・クレジオという作家の『ミチョアカン報告書』という素晴らしい本があるのです。
ほんとのミチョアカンはメキシコシティからもっと西に行ったエリアにあって、
今回は行けないだろうな〜と思っていただけに、なんだかうれしい偶然。


そして、こちらはポポカテペトル通り。
なんか聞き覚えがある気がして、パチリシャッター押したのですが、詳しくはこちらインスタの投稿をご覧まし。
この、さりげないアピールは、いったい(笑)

https://instagram.com/p/BSU8OLsD-yH/


2017年3月30日木曜日

地味〜にリニューアル。
Twitterのタイムラインを埋め込んでみた。
できるぞ、ワタシ☆
よかったらのぞいてみてネ↓

http://hello-umic.blogspot.jp


こんな感じ。わーい\(^^\)(/^^)/チャチャチャ




2017年3月26日日曜日

20170324-3 17:40

調子に乗ってもういっちょ。

女の人で、料理がじつはあんまり好きではないけど、それを表現できてない人ってけっこういると思う。

わたしも、自分でつくって美味しくて「天才っ!」となることはあるけど(笑)、料理が好きかといえば、けして好きな方ではないと思う。もしつくってくれる人がいるなら、その方がうれしい。

ここのところ子育てもどきをしていて、ますます「母たちよ、どうか嫌いなことはなるべくしないでください!」と思う。
そんなこといったって、ワタシがしなかったらどうするのよ、と思うかもしれないけど、大丈夫。きっとやってくれる人が現われるよ。

だって、十月十日妊婦をやって、そのあと出産でヘロヘロなのに授乳と寝不足の嵐・・・そのうえ旦那のごはんまでつくって、こどもは泣くし、ひとりで家事も買い物もして?いやいやいやいや、ムリっしょ、ふつうに、とおもう(笑)

そこでがんばってはいけないのだ、たぶん。
がんばれる人はそれでいいと思うけど、がんばれない人もいる。
その延長に虐待とか、ぜんぜんありえるよなぁ、と。

生んですぐなんて、たぶん1、2ヶ月赤ちゃんとバブバブしてるだけでいい。
そしたらたぶんただただ幸せにすぎていく気がする。
(それが嫌な人もいそうだけど、笑)

実際にやるかやらないかはべつとして、したくないことはしたくないという、できないことはできないと言う、「みんなしてるから」とかでなく、そういう基本的なことがとても大事だなとあらためて思います。


20170324 16:50


文章書きたいな~と思ったら、今日はみーちゃん(双子の女の子)がスヤスヤ眠ってくれているので、大変はかどる。

さて、こちらでもちょいちょい書いているけれど、自分がなにがスキでなにがキライなのか、自分がなにを想ってるのか感じてるのか、そんないろいろが分からなくなりすぎて、一回人格破壊が起き(笑)、自分をいやというほど見つめ自己改革を始めること7年。

その成果を、いまここメキシコで感じることができて、とても嬉しい。

「うざっ」と思ったときに、「うざっ」と口に出せること。
「イラッ」としたときに、「イラッ」とできること。

そんな単純なことが、かつてのワタシには、とてもむずかしかった。

コロンビアのおばちゃん、基本はキュートでいい人なんだけど、なんでも自分でコントロールしたい感じのところがあって、疲れてくるとちょっぴり小姑化するので、そんなとき彼女の演じるドラマに入り込まないようにすること、そのためにその場で感じたことはため込まずその場で処理すること。嫌なことは嫌と思っていい、なんなら無視してもいい、腹立つことは腹立つこととしてあっていい、不機嫌な顔をしてもいい、人のことを「ウザい」と思っていい、そんなこんながあまりに自然にできている自分が、なんだかとても喜ばしいのだ。

そんなわけで、双子のサポートもあり、自分と自分自身のおかれた環境を適切にマネジメントできている感覚とともに、とても快適に暮らしている(笑)。

しかし、思うにつけ、この仕事、なかなかできるひともいないんじゃなかろうか。
異国での子育て、しかもコロンビアの見ず知らずのおばちゃんと。
ひとりひとり、できることできないことというのがちがってよかった(笑)。


ひきつづき、自分とまわりの観察を楽しみます♪







2017年3月25日土曜日

20170324 15:01


いやぁ、ほんとうに感慨深い。
2009年に失意のうちに(笑)撤退したラテンアメリカ圏へ、ふたたび。

道ゆく人が、日本人ばかりでないだけで、なんかとてもホッとする。
そうそう、これが自然だよね、地球ってこういうところだよね?って。

多国籍多人種、という環境に、ホッとするのだ。

日本も大好き。とても素晴らしいところだと思う。
でもこの世界の多様さと彩りに触れることは、わたしにとってはなによりのご馳走。モグモグ。
単純に外国人という立場が気楽だというのもある(まぁ非常時にはいろいろ大変だと思うけど)。

一時期、”Think globally, act locally.” ということがよく言われていたけれども、なんかそろそろ”Think cosmically, act globally.” くらいでもいいんじゃないですか?と思う。
もしくは”Think locally, act globally”な人がいてもいいんじゃないかなとか。

日本という土地で練って醸成したこの独特なエネルギーを、少しずつ日本の外に運んでいくこと。
ここに来て、なんかそんな必要性?をすごく感じた。
野心もくそもあるはずのないcaoさんが「海外進出よ!」とよくいってた訳がわかった。

日本だけでなく、世界中のパワースポットと呼ばれているところ、もしくはレイライン、地球の経絡(ツボ)。
そういうところで、局地的に高まっているエネルギーを、均(なら)していくこと、等しく伸ばしていくこと。
肌の上にぽとぽと落としたボディクリームを、均等に伸ばしていくみたいな、なんかそんなイメージ。

自分自身のエネルギーが充分に満ちたと感じた人から、自分自身の棚卸しがいい感じで済んだな思う人から、どんどん日本の外にも出ていくとよい。
需要は、たぶんすごくある。

個をきちんと確立したうえで、混じり合うこと。
この”豊か”な日本で生まれたならば、内に籠もりすぎることなく、自分の持てるものを自分なりのやり方で最大限世界に還元していく、そういう気持ちってなんかとても大事だなって、ひさかたぶりに感じました。自分自身の空虚さを埋めるためではなく、自分自身から目を背けるためでもなく、気が済むまで自分自身と向き合い満たしたのちにまたこういうことを想えることはとても嬉しい。

変容=エネルギー/周波数をあげていくことを望んでいる土地が地球上にはまだまだたくさんある。
精霊たちとの対話、眠れる大地との対話、そして、お宙との協同。










こちらでも日々のこと、すこしアップしてます☆彡

https://www.instagram.com/umic11


2017年3月20日月曜日

20170319 22:12


Que loca mia vida…!!!

珍人生、これに極めり。

今回メキシコシティにわたしを呼んでくれたのは、今年地球にきたばっかりの双子の姉弟♡

コロンビア人のおばちゃんと、双子の乳幼児と、メキシコシティのマンションで珍生活を送っております。

平和だけど、設定がもうなにがなんだか(笑)

新生児の世話、という技能まで身についてしまった・・・
双子の赤ちゃん、かわゆす。

こちらももうすぐ春分。

波照間から与那国へ、三輪山とコンタクト・ハズ・ビガンを経由してのメキシコシティ。
この人生、どう転んでも珍百景にしかならないみたいなので、天空を纏い運び繋ぐ旅、ひとまずやりきろうと肚をくくった2017年の春です♪(笑)

みなさまもよき春分を(*^^*)



 



2017年3月6日月曜日

20170306 14:08


それから、今月15日から1ヶ月ほどメキシコシティに行くことになりました。

事実は小説よりも奇なり。

いやぁ、ひさしぶりのスペイン語圏、高まります。



20170306 14:03

いやはや・・・

京都に帰ってきてからというもの、連日あわただしく濃密に過ぎていて、いろいろと記録したいのだけど記録がぜんぜん間に合いません。

ひとまず、今週は10日まで大阪アジアン映画祭に潜入しています。
梅田ブルク7でなぜかインカムまでつけて受付にいるのでよかったら遊びに来てね(笑)

映画祭関連ではないのですが、きのうは舞台挨拶に来ていた「この世界の片隅に」の片渕監督をお見かけしました。
最近有名人バッタリ多いです。






2017年2月20日月曜日

こちらに、春分の記事をアップしました☆彡

【今年の春分はウサイン・ボルト】
http://hello-umic.blogspot.jp/2017/02/blog-post_20.html


よかったら、読んでね。


2017年2月18日土曜日



与那国紀行2017


20日間、波照間にいたあと、旅の終わりに与那国に行っていた。

石垣で数日すごそうかと思っていたところに、ふいに友人が勧めてくれて「ユミックを与那国に繋ぐために私は与那国行ったのかも」とまで言うので、急きょ航空券を予約したのだった。

私はこういうときの行動だけはめちゃめちゃ早い。身体からも魂からも、なんのひっかかりもなくゴーサインが出ているときには、アタマであれやこれや考える余地はもはやなく、石垣で泊まる予定だった宿もキャンセルし、あらたに与那国の宿を予約して・・・と手とカラダが勝手にサクサク動きだすのだった(そういう意味では私のカラダというのはめちゃめちゃわかりやすい・・・)。

さて翌日、さっそく朝一の便で石垣から与那国に向かった。

結果、ほんとうによすぎて、ほとんど写真をとるのもわすれてウットリとすごしていた・・・

最果てにとくに興味はないので(なぜなら地球は丸いのだから)、果てだからとかなんだからとかではなく、いままでに行ったどこともちがう不思議な空気感。

島なのに、大陸の風が吹いている。

それは物理的に大陸に近い、とかそういうことではなくて、どちらかというと内モンゴルとかそのくらいの、もしくはマチュピチュを思わせる高山地帯の都市ような。

天空の城。

なんとなく、今の時点ではこの表現がしっくりきている。

波照間の珊瑚にたくさんたくさん洗われて、空っぽになったところに天空の風が身体のすみずみにまで行き渡っていった。そんな感じ。

身体のすみずみまでこの空気を吸い込んで、天空の風を今もここに運んでいる。



「天空を運ぶ。天空を纏う。天空へ繋ぐ。
 それがアナタのしごと、命の使い道 」



天空の風に乗って、そんなメッセージもひらり舞い降りてきました、ヨ。

南の島々に、ありがとう。
ひとまず、ただいま。







2017年2月13日月曜日

下の気づきに先立って、こんな気持ちも出てきていました、memo。

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20170212 9:15

「アナタのようでなくてごめんなさい」

という気持ちがでてきた。
人のようであること、人のように振る舞うこと、人のように考えることができること

うーん、「人」ってだれやねんって思ったら、結局これは、母への思いなのかもしれない、とおもった。

貴女のようでなくてごめんなさい、貴女のようにできなくてごめんなさい、貴女のようでありたかった・・・

私が私であることによって、他者をつねに否定しつづけているような感覚。
母にとって私は、たぶんあまりにも自由であまりにも突拍子ない。
つねに彼女の意識のブロックを、刺激し続けてしまっていることへの罪悪感。

うーん、まだあったかぁ。

南無南無。

ちーん・・・。





2017年2月12日日曜日

【私は幸せだった!の巻】

私の誕生の瞬間は、たぶん絶望から始まっていた
肉体を持つこと、分離を生きることへの

なるべくこの世界に期待しないよう、なるべくこの世界でガッカリしないように心を閉ざして、固く感覚を閉ざして生まれてきた

多少のガッカリに、もう傷つきたくないという想い
救えなかった、間に合わなかった、

結果、目の前で迎えた崩壊的な終焉

そのトラウマ

まぁよくある話で、真偽についてはどうでもよく、また全ては最良必然であったとしても、魂に刻まれたその深い深い、ガッカリ感、無念。

それが、あらゆる幸せを受け取ることを拒否している大元の根幹にある、ということが急に腑に落ちた。

つねに、うっすらとは感じつづけていた感覚なのだけども、いま急に雪崩のように過去への感覚が書き換わり、ものすごく深く理解した。

父も母も、私が生まれたときに、小躍りするように喜んでいたこと。
無条件に可愛がり、日々祝福されていたこと。

肉体を持つこと、分離を生きることへのあまりの抵抗感、そして過去への無念から、それらをまったく受け取らず遮断していたことに、いきなり気づいた。

命として、ただただ祝福されている瞬間があったという事実が急に私の現実にストンと落ちてきたのであった。いままでどうがんばっても「採用!」とならなかったシナリオにいきなり採用ハンコが押された感じ。

ああ、もうこれで充分じゃないか。たとえ瞬間のことであったとしても、”人を通じて”(ここ大事)それだけの祝福を一身に受けていたことがあったなんて!もう、それで充分。
子どもを持った友だちがたまにそういうことを言っているけれど、こういうことなのだねぇ。

とにかく生まれる、ということへの私自身の拒否感抵抗感とネガティヴイメージがハンパなく、結局それによって現実は創造されていっていたのである。

ひゃ〜〜びっくりびっくり。

分かってみれば、そのまんまなオハナシで、いやぁ、この自作自演劇&今更ですか?なこの気づき、ほんとによく出来てていやになるーー( ̄(工) ̄)



2017年2月11日土曜日

20170210 11:30

まえにショーニャにもらったインドの綿の白のワンピース、すごく着やすくてラクでシンプルで重宝していたのだけれども、いかんせん生地がもうヘタヘタ。
丈とか着心地とか、ポケットがあるとか、すごく優秀なんだけどなぁ・・・
なごりおしいけど、つぎなる素敵な子が現われることを願う。なむ。






2017年2月10日金曜日

【わたしと中国:上海”我金無”事件(笑)】

そんなこんな?で、いろいろと思い返してみると、人生とはかくもネタばかりなのであった。

大学時代の専攻がインド・イスラーム文化だったのもあって、当時は長期休暇といえばインドによく出かけていた。まぁたいがいが珍道中なのだけども(笑)いま思い出してもいちばん笑えるのは、インドからの帰り、上海で乗り換えだったので空港までのバス代とごはん代くらいしかもたずに上海の街で夜を明かしたときのこと。

朝一のバスで空港に行けば間に合うはずだったのだけれども、待てど暮らせどバスなど来やしない。
空港行きのモノレールはまだ動いていなかったし、バス代くらいしか現金をもっていなかったので、タクシーに乗るわけにもいかず・・・

うひゃ~これで飛行機とか逃したらやばい~!とドキドキヒヤヒヤ。
そして街では思いのほか英語が通じなかったのがさらなる誤算。

必至なときって人間なんでもやるなと思うのだけど(笑)、そんなピンチにきっといろんな日本人が試みたであろう「デタラメ漢字大作戦」を決行いたしました。乏しい漢文の知識を総動員して「飛行場に行きたいのだけどお金がありません。日本に帰ったら送るのでかしてください」と(いうつもりで)書いてみた。

もう、「我金無」って書いたときの情けないやら笑えるやら(笑)、このあやしいえせ中国語で書いた紙を、道ゆく優しそうな人をつかまえては見せるのだけども、完全にあやしい日本人で誰も相手になんかしてくれません(そりゃそうだ笑)。それで街の人に声をかけるのはあきらめて、タクシーに直接交渉に乗り出したんだけど、お金もないのにのせてくれる人なんかやはりおらず。

もう何台も断られ、いや~いよいよ困ったな、と思いながらこれで最後だっと思ってつかまえたタクシーの運転手さんが、なんと「いいよ」と言って乗せてくれたのであった!神!!!

そして空港に向かう途中、どっかに日本円でも現金なかったかなぁ~~~~とカバンをゴソゴソしていたら・・・な~~~~んと、五千円札発見!!!!
よかった~~~これで、ただ乗りしないですむ~~~~(冷汗)とホッと一息。
そして「あった、あったよ!!!!」と運ちゃんに興奮して伝えるも、そもそもあまり事情が分かってないので残念ながら興奮伝わらず(笑)。無事空港ついて、両替して、タクシー代を運ちゃんに渡し、めでたく帰国できたのであった。比喩でもなんでもなく、あのときの彼はまぎれもなく神であった。


いまでもたまにこの「我金無」ってフレーズをあのときの必至さとあわせて思い出しては、我ながらぷっとふきだしてしまう。まったく自慢になるような話ではないですけれど(笑)、人生でなんだか暗い気持ちになったときにはこの時のことを思い出すとだいぶ笑えるので、過去の自分とタクシーの神に感謝。


2017年2月9日木曜日

追記:

ちなみに、星野源さんがなにかのインタビューで「自分は本来ネアカ(ネクラの反対)だと思う」というようなことを話していて、その感じ、ものすごくよく分かる!と思った。
たぶん、もともとがすごくネアカで、だからこそ自分の闇とか隠しておきたい部分がある、というのを自分の内だけに隠していられなくて、ほんじゃ自分のネクラの部分をこれでもかっていうくらい掘り起こしてみよう!と、そんなこんなしてるうちに、ほんとにネクラみたいな気分になってきて、それでちょっと本当に死にかけちゃったりするんだけど、それって真っ白なシーツのちょっとしたシミを掘りさげてるだけだから、けっきょくふりかえってみれば、じぶんはだいぶネアカだったということに気づくという・・・。それを経て、なぜ生きてるとか死ぬとか、もうそういうことってどうでもよくない?お腹空いたなとかあの娘カワイイな、とかもうそれでよくない?みたいな結論になるっていう思考のプロセス、めちゃめちゃよく分かる。

でもまぁ、この結論に至るまでにシミをとことん掘りさげるってのは、必要なプロセスなのだろう。

世の中のうつとか引きこもりとかいろんな不調とかって、このシミを見ている時間、シミにフォーカスする時間、そんな時間なのだと思う。

ちなみに、わたしももともと人生に対してバカと言っていいくらいのポジ野郎だと思う。
どの人生も、どの決断も、どの選択も、いやもう最高、問題ナシ!!!!みたいな、超ノーテンキで無責任なスタンスがベースにある。世界のどんな不幸や哀しみや残酷や悲惨を知っても、今この瞬間に生きてることに関してはLOVE LIFE♡とか本気で言えちゃうあたりが、なんだかなぁと思うけど(笑)まぁ、こればっかりはしかたない。

ほいで年末流行った「恋ダンス」、こないだYouTubeでちゃんと歌の方を聴いたのだけども”意味なんてない ただ暮らしがあるだけ”って素晴らしい歌詞だなと思った。
そもそも生きることに意味だとか使命だとかを求めはじめるから世の中物騒になるのだ。
星占いやってるくせに言っちゃうよ。だって大事なのはそこじゃない。
まぁ、そこに意味や使命を求めて生きるのもそれぞれの自由だしプロセスなんだけどもねぇ。


20170209 18:19

なんかもう、ほんとうにいまさらでお恥ずかしいかぎりなのですけど、ようやくヒトというものがどういうものなのか、分かってきた(納得できてきた)ような気がする。

ミドリムシとかゾウリムシとか、そういう単細胞生物の眩しいまでのシンプルさに憧れてしまうようなところがあるので、ヒトとして生きるというのはわたしにとっては過剰なまでにフクザツで、今思えばなんだかほんとにチンプンカンプンだったのである。

つまり、ヒトというのは・・・

「ひとりでいれば淋しいと思い
ごはんを食べなければハラをすかし
ハダカでは寒かったり暑かったりする」

そういうイキモノなのですね!!!

なぜか基準がヒマラヤの山奥でハダカで暮らしてる人、みたいなところがどこか無意識にあり、生きるうえで他者を必要とし食べものを必要とし衣服を必要とする、そういうことがわたしのなかでどうにも腑に落ちてなかったのである。どうしてもなくて困る、ということはないはずだと。

いや、でも、ここ日本だし!!2017年だし!!ミドリムシじゃないし!!

「ひとりでいれば淋しいと思い
ごはんを食べなければハラをすかし
ハダカでは寒かったり暑かったりする」

死ぬまでちゃんとそういう人間でありたいと、あらためて思う今日このごろです。

こんなときに思い出すのはいつもブラジルにいたときのこと。
その当時をふりかえった日記を掘り起こしてきたので、長いですがもしよかったら。
(5年も前のものなのでちょっと恥ずかしい)

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20120627

は~~~~~~~。
ひ~~~~~~~~。
ふ~~~~~~~~~。
へほ~~~~~~~~~っ


は~~~~~~、
いや~~~~、地球、すごいわ。
すんごいとこだわ。

こ~~~~~んなにもすごいとこだったなんて、
知らなかった。

2009年のブラジル行きの結末が、こんな風に落ちてくるなんて、ちっとも想像つかなかったよ!
う~ん。すごい。

なんかもう、感謝しかない。
時間をかけてしか分からないことってじつはすごく苦手なんだけど、でも、それがこんなに素敵なことだなんて初めて知った。

今の地球のあり方を、本当に、心から愛おしいと思う。
バカみたいだししょうもないし無駄もいっぱいだし時間なんて無視したいし、分離ってなに?って感じだし、もう文句はタラタラなんだけど、でも、そこで繰り広げられているドラマがこんなにもキラキラしていて愛おしいものなんだったら、みんな、好きなだけ好きなように生きたらいいよって思う。

生きるっていう、ただそれだけのことが、こんなにも美しいことだなんて!
それを目の当たりにすると、つい毎回感動しちゃう。

だから「執着はするな」とかヤボなことは言いたくない。
インド哲学も、たしかに生きる智慧の最高峰みたいなとこはあるんだけど、地球には「最高峰」でなくても、それぞれにすばらしい生きる智慧があって、私は今生でそれをずっと知りたいと思ってきたし、「最高峰」以外のやり方も愛したいと思い続けてたっていうことが分かった。

インド哲学がどういう意味で「最高峰」かっていうと(ここでいうインド哲学って、広義の意味で、レーネンさんもそうだし、いま主流になってるスピリチュアル的な考え方と源泉を同じくしているもの。)「苦しみから逃れる」という目的を達するための哲学としては「科学的」といっていいくらいの明快さと合理性があって、そういう意味でやっぱ「最高峰」だと思うの。
でも、人間には、「苦しみから逃れない」っていう選択肢もあって(その代表選手を私はブラジル人に見てるんだけど)、それを選んだ人たちにはその「最高峰」はまったく役に立たないんだよね。目的が違うから。「苦しいとか悲しいとか楽しいとか、もうそんなのにかまってらんないよ、とにかく、私は今、この瞬間、自分が感じてること、自分がしたいと思ってることをするから!!!結果なんか知らん!!」みたいな。だって、ブラジル人に「執着」について説くことほど野暮なことってないんだもの。
でも、彼らは彼らなりにハッピーに生きる智慧を生み出してて、瞬間のキラキラに命を懸けてて、しかもそれが、インド哲学的な考え方と、本当に深い、深いところではしっかりつながっていて、わたしはこのつながりを見つけたくて、信じていて、ああ、今に至る~~~るるる~~~
(もう、なんかややこしすぎて伝えることを放棄しだしてる・・・笑)

ややこしいので、具体的な出来事の方を話すと、
とにもかくにも、ブラジルでお世話になってたアーティスト夫妻の弟家族が日本に来てるというので、月曜日に会うことになった。
彼らとすごした時間というのはわたしの中ではまだ未消化な部分がたくさんあって、やることなすこと裏目に出る、みたいな、愛の交換をうまくできなかったことが最大のトラウマで、彼らのあり方を愛したいのに自分の傷の方が大きすぎて、愛せないことが苦しくてしょうがなかったというか。で、そんなままだったから、今回会うのもちょっと気が重いところがあって、しかもブラジルから帰るときにゴチャッとした流れでもらってきちゃったかなり立派な作品を弟家族に持って帰ってもらえるよう頼むっていうちょっとこれまたややこしい要件もあって。

で、気は重かったんだけど、会ってみたらさ、やっぱりあの、ブラジル人独特の、なんていうんだろう、M家独特ともいえるのかもしれないけど、やわらかくて、優しくて、奇跡みたいな愛の空気になるんだよね、その場が。ちょっとギクシャクしたところもやっぱりあるんだけど。
で、なごやかにお昼ごはんを食べて、どんなところに行ったとか行きたいとかそんな話をワイワイして、で、一段落したところで私の方の目的だった「作品を持って帰ってもらう」お願いをしたんだけど。で、まぁ、家族だから事情はすぐに察してくれて、(兄のややこしさは親族ならみんな理解している。にしてもM家は兄弟そろってあんなにできた奥さんをつかまえてるとこがまた奇跡)OKってことになって。
で、わりとスムーズにいったかと思いきや、やっぱその後でなににかわからないけど、弟の方が傷ついてるのがわかって、遠慮のない攻撃オーラが無言のまま発されていて。で、無言の攻撃オーラを久々に浴びて、「うわ~~~~これだ~~~~。これに私は本当に参ってたんだよなぁ~~~~(兄弟だけにすごいそっくり~~~~)」となつかしく思いだしていて。
で、そんだけ遠慮なく攻撃オーラ出しておきながら、口では何も言わないのね。で、たちが悪いのは自分でもそんなオーラが出ちゃってるなんて気づいてないっていう。苦笑
それだけ何かが嫌だったなら言ってくれよ!って思うんだけど絶対言わないの。そこが、アメリカや他のラテンアメリカの国との大きな違いだし、いた当時は、そこに一番傷ついてて。

で、「うわ~~やっぱきついな~~~~」と思ってたら、そのうちに(ブラジル人だから普段からスキンシップは絶やさないんだけど)娘に甘えてとにかくハグ、ハグ、ハグ、いちゃいちゃいちゃ、と始まって。でね、それ見てたら急にわかったの!
「わ~~そっか~~!この人たちはなんだか自分でもわかんないけど傷ついちゃったハートを、こうやってその都度癒してるんだ!だからわたしは相手が自分の行為によって受けてしまったかもしれない傷の心配までしなくていいんだ!彼らは彼らでちゃんと癒す術を持っているんだ!」って。

ああして、ブラジル人がいつも暇さえあればだれかれ構わずハグハグいちゃいちゃしてるのは、彼らが傷つきやすいからでもあり、傷つくようなできごとが頻発するからでもあり、だからこそ誰かを攻撃してもしょうがないっていうことも理解していて、でも自分の傷をそのままにすることもできないから、だれかを攻撃したり、ある意味瞑想するかわりに、ハグハグいちゃいちゃしてるんだっていう。

自分の中に神を見つけるのもいいけど、すぐとなりの人に神を見つけてもいいんじゃないっていうね。お互いが、お互いの神(マリア)になりあえばいい。

だから、生きる術としての「切り離し」をある意味ほんとうに実践していて。自分が傷つくのは、相手とは関係のないことだということを、まるで信仰のように持っている。だから、傷ついたと思ったら、瞬時にどんだけ攻撃オーラが出ちゃってても、その瞬間にもうハグハグして、めいっぱい甘えて、優しくしてもらって、なんとか次の瞬間から相手を愛そうと必死で。ああ、なんて愛すべき・・・

もうね、それが分かって、どれだけ安心したか。

やっぱ今になって気づくけどいつでも恐怖だったんだよなぁ。自分が生きてることが誰かを傷つけてるんじゃないかってことが。で、攻撃を受けることも。
だから、要はブラジルにいたときにその思い込みがものすごい勢いで現実化してたってことなんだけど。そういう意味で、ブラジルは本当に引き寄せと現実化がはんぱない場所だと思う。「ほどほど」ということがない。そんなの知らないで葛藤抱えたまんまポーンと飛び込んだなんて、ほんとおそろしいことしたよなぁ・・・

でも、こうして時を経て、恐れていたものをきちんと見ることができるようになって、そうしたらこんなにも愛すべき贈りものが届けられるなんて、なんて素敵なことなんだろう。
本当に、こんな結末になるなんて、
もう、ほんとうに、生きるということにはびっくりしっぱなし。

あ~~~もう、本当に、遠回りしたかいがあったなぁ。
「最高峰」にすっと行ってしまったほうが私にとってはずっとなじみがあるし、楽なのは分かってたんだけど、「最高峰」じゃない、人間が、人間らしさを保ちながら、普段の生活の中で、自分を抑圧しないで、どうやったらお互いをいたわりながら生きていけるのかってことを知りたかったんだと思う。瞬間にありったけの愛を込めて、めいっぱい執着して、裏切られて傷ついて、、そうやって生きる生き方を肯定したかったというか・・・。あれ?なんか演歌みたいだけど?笑

「結果なんか知らん!!」って、つまり最高に執着を手放している。笑

あ~~~あの、ブラジルのマジカルでエキセントリックな感じを、ぜんぜん伝えられてないのがものすごく残念!(そう考えると、ブラジルを小説にしたカレンはつくづくすごい。カレン・テイ・ヤマシタ『熱帯雨林の彼方へ』はとても素敵な小説です。)

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あああ、まだまだブラジル人への道は遠いけれども、彼らの愛すべき生き方はわたしにとって永遠の憧れ。





2017年2月8日水曜日

20170208


ペムチ浜の朝(2/7)







ニシ浜のゴージャスな夕陽(2/8)




2017年2月7日火曜日

【わたしとドナルド・トランプ】

えっと「わたしと◯◯」シリーズで、しばし文章を書いてみたいと思っています。
第一回目はただいま世界のお騒がせ?「トランプ大統領」。

トランプさんとわたしのあいだにもちろん個人的接点はありませんが、彼が大統領候補になりはじめたときから彼の名前を聞くたびにわたしの脳裏をよぎっていたのが「ラスベガスのトランプタワーのトイレってTOTOなんだよねぇ」ということ。笑

なんでそんなことを知ってるかというと、むかしTOTOの企業誌?をつくる編集のアルバイトをしていたことがあって、あるとき海外のホテルを特集する号でラスベガスのトランプタワーが取り上げられていたのだ。
記事にする前段階の情報収集とかリサーチとかそんなのをやっていたのだけど、そのときに初めてラスベガスやらトランプホテルやらのことをちゃんと知ったので「すんごいものが世界にはあるなぁ、しかしここで年がら年中遊んでる人たちも、日々TOTOのトイレのお世話になってるのね・・・」と、まったく関わることのなさそうな人種の人々に、妙な親近感を覚えたのであった。

なので、トランプさんが日本のメディアに登場しはじめて最初に持った感想は「あ、あのTOTOのトイレの!」というものでした。
トイレとかこだわる感じ、なんか分かる。

いやぁ、アメリカ、おもしろいですよね。
トランプさんの存在によって、だれが国のトップになるかというのは、けっきょくお面が変わるだけですよ、という公然のしかし隠された事実がうっかり漏れだしてしまっている。


ホワイトハウスは、さすがにTOTOじゃないかな。


20170207

野草にハマる、の巻




波照間きてから自炊が楽しい。今日はどの草(笑)食べようかなとか、サバ缶つかってなにできるかなとか。
島に意外に売店はたくさん(5軒)あって、とはいえ食材は限られている。
でも普段つかったことない食材とか島豆腐とかそんなのがちょっとあるだけでとっても楽しい。
きのうは近所のおばちゃんにお豆をもらったので豆ごはん炊いた。
島の商店ってことで思い出すのはキューバだけれども、あのときと比べればめちゃめちゃ豊か。キューバの商店の、暗くてガラ空きの棚のせつなさといったら・・・(配給制なので商店にはあまりモノがない)。
帰りにトランジットで寄ったバンクーバーのスーパーが、あまりに品ぞろえ豊富で(ふつうなんだけど)とてつもなく眩しくてクラクラしたのを覚えている。「リ、リンゴが大きい・・・そしてなんか艶めいている・・・!」と、スーパーに並ぶすべてがいちいち衝撃だったなぁ。
いまは、またすこし変わったのかな?
ちなみに今日のサンドイッチにはムラサキカタバミの葉と花をつかいました。名前などは事後確認です。笑

野草料理ってストイックなイメージがあったけれど、まえに大見でバカボンさんの野草摘み&食べる会に参加させてもらってから、野草料理ってめちゃめちゃメルヘン!と思うようになった。野草をつかうと食卓が手軽にメルヘンになりますヨ。


2017年2月4日土曜日


ひらかれた円環、そのつらなり
Drawing on sand^o^
28th Jun 2017
20170204 10:51







世界の豊かさを、

めいっぱいに取り込んで

めいっぱいに味わって

あ〜幸せ!っていいながら死んでいきたい

哀しいことはもうたくさん

苦しいことももうたくさん

あ〜もう、充分味わいましたよ

背中に羽根を生やしてね、

微笑みながらキャッキャキャッキャといきてゆくよ


ただしいか

とか

ただしくないか

とか

どうでもいいね

やっぱりもう

楽しいか

楽しくないか



ワタシとせかいへたくさんの愛をこめて

いきる



LOVE LIFE!!


♡♡
♡♡♡
♡♡


VIVA LA VIDA



2017年2月2日木曜日

20170202 20:10

やっぱり日記形式がいちばんしっくりくるな、ということでようやく新しい日記ページをつくった。その4。

自分のことを記録するくらいしかすることはないし、けっきょくそれで充分なのだ。
この世界で今という時を肉体をもって生きているということこそが、やっぱり最高にすっとんきょうでおもしろい。
教訓クサいことはもうしばらくよいわぁ・・・

ということで、しばし日々の記録をしていきたいと思います。

---

今日は朝から北風びゅーびゅー寒い一日。
朝は7時くらいに起きて、さんぽへ。いつものサトウキビ畑をぬけて、30分くらいのつもりがおもいがけず長旅になり、1時間半くらいは歩いていたかも。

ライトボディの目覚め』(ナチュラル・スピリット、1998/この本、最近の自分の身体の変調を理解するのにすごい役に立ってる)に書いてあった瞑想のガイド?エネルギーワーク?を波照間にきてからためしてみているのだけど(自分自身のエネルギーフィールドを保つ&肉体に光を取り入れるのにすごくよい)、しばらくさんぽしてあんまり人目を気にしないですむ海岸あたりでしばしこのワークを。背後にヤギの視線を感じつつ、朝の光をいっぱいに吸い込む。

今回の波照間滞在は、あえて解体しつくしてなんの原則もなかったわたしの生活に、いちおうの秩序を取り戻すっていうのがひとつ大きな目的だったのだけれども、だいぶつかめてきた感じ。いい感じのリトリートになっております。

帰ってきて朝ごはん。
おかゆとみそ汁と梅干しとさんまの水煮。あとみかん半分。
みそ汁の具は、道ばたで摘んだハコベ。
我ながら自分のサバイバル能力の高さに笑える。笑

だって、一人分の野菜を買うってとっても非効率的なんだもの。
しかもここ波照間で。
というか、さんぽしてたらハコベが「よかったら食べてみて♡パワーあるわよ♡うふ♡」ってしてたんだもん!
ていうか、ハコベだとも知らなかったけど、ハコベがハコベだって教えてくれたんだもん!笑
ほんでググったら、やっぱりハコベで、ひとくち食べてたしかにこりゃ元気な葉っぱだ!と思ってお味噌汁の具にしたのでした。

それからというもの、道ばたの草が気になって気になってしかたがない。
苦みもあってパワフルなので、少量でよい感じも嬉しい。
そしてなぜかみなさん、都会育ちの野草初心者のわたしに名のってくれる・・・親切・・・

毒草を摘んじゃうといけないので、原則話しかけられた草だけにするつもりです。笑

たぶん、まえに大見でバカボンさんの野草摘みにうっすら参加してたのが意外に役に立っている。なんとなく、覚えているものだね!
あのときは、クローバーとかすみれとかツユクサとか、ちっこい子たちもそれぞれ味がちがったりしておもしろかった。

がぜんもっと知りたくなってきたぞ。

そしてやっぱりわたしは栽培よりも採取の方がぜったいに向いていると思う・・・。
なんせ、フレッシュなのがいいよね!

そのあとは、このブログをつくったり、ついにインスタのアカウントをとってみたり。
この波照間でパソコンとにらめっこする贅沢さよ。

昼は近くの売店で牛野菜炒め丼を。黒糖プリンとかおみやげ用のモチキビとかもちょっと買った。
夕方また少しさんぽに出て、シャワー浴びて夜ごはん。
け、健康的・・・。

いい感じでリズムができてきたのが嬉しいかぎりです。

今日はこんなところで^^




Hateruma Island, Japan
2nd Feb. 2017








Ishigaki Island, Japan
Dec. 2016